「What A Life!」 - オリジナルバックアップ
⚠️ 今回は8年前、高校生の時に執筆した「What A Life!」の本文を、バックアップとして投稿します。そのため、今以上に文才がなく要約しすぎてあらすじのようになっているところも、誤字・脱字もあえて修正・変更せずにオリジナルのままコピペしていきたいと思います。また今後本記事の内容を元に書き換えることがあったとしても、本記事の内容は変更しません。

[始まり]
2006年、友人に勧められて眼科に行ったぼくは、視力がほとんど残っていないと告げられた。そして大学病院に行かされたぼくは、脳腫瘍を患っているのだと説明された。
当時10歳だったぼくには何のことだか良く分からなかったが、家族の反応からただならぬことだとは理解していた。
こうしてぼくの闘病生活が始まったのであった。
[初入院]
その年の3月30日、ぼくはT医大病院に入院した。言うまでもなく初めての経験だ。
インターナショナルスクールというアメリカ式の学校に通っていたため、ぼくはすでに小学5年生で、春休みも終わっていた。
ドキドキしながらこれから自分の入院する病室のドアを開けると、尿のいやな匂いが漂って来た。
とはいえ、2、3日も経つとぼくは病室の雰囲気に慣れていった。
それから数日が経ち、血管撮影の日がやって来た。血管撮影検査では足の付け根から小さな撮影器具を通して血管内を見る。この時は全身麻酔を使用するということで、ぼくはとても緊張していた。だがそんなぼくを見ていた担当医のA先生は面白いことを言い出した。
「ルーカ、 麻酔に耐えて20秒数えられたらハーゲンダッツを買ってあげるよ。」
遠慮なく、ぼくは数え始めた。
「1、2、3・・・27、28・・・」
「ちょっ、凄いな!どこまで数えるんだよ?」
笑いながら、ぼくは眠りについた。
目が覚めると、ぼくの胸には管のような物が取り付けられていた。
「これから注射を打つ時に痛くないように、魔法のチューブを付けるからね。」
検査の前に先生がそう言っていたことを思い出した。
そのくだは胸からぶら下がっていて、実際、その先端から採血などをしても全く痛くなかった。
そしてそうこうしている内に、手術日が近づいて来た。
4月10日、手術日がやって来た。
車椅子に乗せられて手術室に向かっていたぼくは呑気に「車椅子なんて乗んなくても普通に歩けんのにな。まあ、楽だしいいか」などと考えていた。しかしそんなぼくも、手術室を前にして固まった。
母に励まされながら手術室内に入ると、そこには見たこともない、真っ白な空間が広がっていた。
手術台に乗せられたぼくは、周りに置かれている医療器具を見回した。
母がいれば何も怖くない・・・幼いぼくはそう自分に言い聞かせながら陽気なふりをした。
だが突然、目の前に白衣の手術医が現れた。その先生も、その時だけは悪魔のように見えた。
「じゃあ、始めようか」
麻酔を打たれる時のことを、様々な表現で説明する人が多い。
しかしぼくの場合は簡単に表現できる。
麻酔を打たれた瞬間、天井が回り始めたのだ。血管撮影の時に使用した麻酔とは比べ物にならない。
「天井が回ってる・・・」
それが眠りに落ちる前に発した最後の言葉だった。
目が覚めると、体のありとあらゆる所に鍼や管が刺されていた。
と、その時、A先生が顔を見せた。
「これから傷をホッチキスでとめるからね」
え、それって麻酔が効いてる内にすることじゃないの!?
そんなぼくの心の叫びにも構わず、彼は巨大なホッチキスらしき物体を取り出した。
(作者ページ)
読者の皆様、What A Life! お読みくださり、ありがとうございます。
実はまさにいま3度目の手術のために入院してしまいました。
あまり頻繁に更新できなくなってしまいますが、これからもどうぞよろしくお願いします!
目を強く瞑ると、頭に金属の当たる感覚があり、続いて何かが押し付けられる感覚があった。さらに壁に何かをホッチキスどめするような音までが響いたが、なぜか痛みはなかった。
後から聞いた話によれば、その時はまだ麻酔は完全に切れていた訳ではないらしい。意識だけが少し戻りかけていた状態だったのだそうだ。
次に目を覚ますと、ぼくは暗い緊急治療室のベッドに寝かされていた。そしてベッドの周りには家族のみんながいた。
手術は一応成功した。
「一応」と言わなければいけないのは、脳腫瘍の全てを取りきれたわけではないからだ。
ぼくの脳腫瘍は視神経膠腫という種類のもので、残念なことに視神経と視神経の交わった所にできてしまったのだ。つまり、この腫瘍を全摘出してしまうと両目とも失明してしまうのである。
そのため、ぼくは自ら腫瘍の一部を残すことにした。
だが、最も重要な問題がもう一つ残っていた。
重大な問題、それは内分泌系の問題だ。
脳腫瘍摘出手術の時、どうしても周りの組織に触れてしまう。視神経は下垂体という、ホルモンを司る部分の近くにあり、手術中にそこに触れてしまったのだ。
男性ホルモン、成長ホルモン、副腎皮質ホルモン、甲状腺ホルモンなどの分泌に問題がしょうじてしまったのである。
まあ、とりあえず手術は成功したわけだ。しかし当時子どもだったぼくには、もう一つ気になることがあった。
4月19日はぼくの誕生日だったのだ。大手術の後だというのに呑気な話だ。
そう思いながらも、誕生日の朝、ぼくは病棟のエレベーターの前でひたすら家族が来るのを待っていた。
・・・来た!!
プレゼントとケーキの箱を抱えた母と祖母がやって来たのである。
「病院で誕生日を迎えるなんてね!」
そう言いながらも、ぼくは病院での誕生日を満喫したのだった。
それから1週間ほど経ったある日、病室にA先生が来た。
「そろそろ抜糸するか」
その一言に、ぼくはすくみ上がってしまった。そんなぼくを見て彼は「そんなに痛くないよ!」と笑った。そして見るからに痛そうな尖った医療器具を取り出したのだ。
バチッ!バキッ!
案の定、抜糸は物凄く痛かった。
だが地獄のような時間が終わると、手術跡はずいぶんとすっきりした。
「この分ならもう少しで退院だな」
そして先生の言うとおり、ぼくは5月15日に退院した。これから更なる地獄が訪れることも知らずに・・・
[違和感]
最初に違和感を感じたのは、2007年の夏だった。
ある日突然頭痛がして視力が落ちたのだ。そのうえ、眠くもないのに気付くと寝てしまう。
だが、視神経膠腫は通常再発しない。成長ホルモンが出ていないとは思えないほど背も伸びて、もう腫瘍のことなど気にならなくなってきていた。
そして6月に定期のMRI検査を受けたぼくは思っても見なかったことを伝えられたのだ。
「うわ、これは・・・」
MRI画像を指差してA先生が言った。
「腫瘍から出血して、同時に勢いよく増大してしまってるね。しかもルーカの腫瘍は石灰化までしてるから、視神経を圧迫しているんだ。」
先生の話によれば、ぼくの視力は腫瘍を取ったとしてもいつまで持つかわからないそうだ。
「腫瘍を摘出するとしたら手術か放射線、化学療法などの方法があるけどどうする?」
ぼくは悩んだ。人生に関わる決断だ。
「ぼくは・・・」
もう学校は夏休みに入っっていて、ぼくはもう次の週にはハワイのサマースクールに行くはずだった。ハワイから帰ってから放射線治療を受けるか、今から手術を受けるか。
それだけではない。2度目の手術となると脳の組織が癒着してしまい、摘出するのが困難になる。
だからといって放射線治療や化学療法には重い後遺症がつきものだ。
が、くよくよ考えていても仕方が無い。
「決めました!」
「手術をお願いします。いつまでも放射線を浴びているより、一息に腫瘍を取ってもらった方が良いです!」
A先生は頷いた。
「ルーカがそうして欲しいなら、そうしよう。あと、夏休みの予定とかもあるんじゃないか?今すぐに手術しないと死ぬってわけでもないし、楽しんで来たらどうだ?手術はその後でもいいぞ。」
「はい!!」
ぼくは勢いよく返事をしたのであった。
しかし、脳腫瘍の影響は思ったよりも大きかった。
ハワイに着いてからも不自然な眠気はつきまとい、視力も落ちたままだった。しかもこれはただの旅行ではない。ハワイにはあくまでも勉強をしに行ったのだ。
ぼくがサマースクールとして選んだのはハワイ一の有名校、イオラニだった。
そしてサマースクール初日、イオラニの校門前に立ったぼくは、すでに来たことを後悔し始めていた。
(作者ページ)
読者の皆様にお知らせがあります。
ぼくは明日、3度目の手術を受けます。
それに伴って1、2週間ほど作品を更新できなくなってしまいます。
どうかまた元気になったらこの作品をお読みください。そしてもし良ければレビューお願いします。必ず返事します。
マンモス校・・・なんてレベルじゃない。いくつもの校舎が建ち並ぶその巨大な土地、それは一目見ただけでは学校とわからないほど大きかった。
しかも今のぼくは視覚障害をおっている。そんなぼくが通い続けられるのか。
一瞬そう思ってしまったのだ。
授業へと急ぐ生徒の波に何度も飲み込まれそうになりながらも、気付けば教室の前にたどり着いていた。
この頃の記憶は曖昧だが、確かぼくは経済、英語(日本でいうところの国語)などのクラスに申し込んでいた。
そして普通の授業になるだろうというぼくの考えは無残にも裏切られることとなったのだった。
(作者ページ)
ファンの皆様、そしてコメントやTwitterで元気付けてくれた皆様、ありがとうございます。
おかげでぼくは無事手術を終えることができました。
今は入院中で、これからはまた少しずつ更新していくので、よろしくお願いします
事件は1日の終わり、最後の授業で起きた。それは英語の授業で、見るからに緩そうなおじさん先生が受け持っていた。
その授業の後半に差し掛かったところで、クラスの女子生徒たちが突然他の男子生徒たちに突っかかってきたのだ。これを境に、男子対女子の大げんかが始まってしまったのだ。教室の真ん中に座っていたぼくを挟んで、とうとうポテチの粉の投げ合いまでもが始まった。こんなの、マンガかテレビでしか見たことないよ・・・
ぼくがそう嘆きながら先生を見ると、彼は興味のなさそうな顔で「Relax」(落ち着けー)と一言言うと授業に戻ってしまったのだ。
一体このサマースクール、どうなるんだか・・・
ぼくは先が思いやられる気分でそう思っていた。
・・・とは言え、朦朧とした意識の中ぼくは3週間のサマースクールに通い通した。
そして帰国したぼくを待ち受けていたのは、2度目の脳腫瘍摘出手術だった。
[2度目の入院]
1度目と同様に、ぼくはT大学病院に入院した。
そしてぼくは手術医のH先生と主治医のA先生の二人と話をした。
しかしここでぼくは二人の言っていることが異なっていることに気付いた。
まずはH先生の言ったこと。
「これは液体だね 君の腫瘍は前回は石灰化していたんだが、今回は液体状のものだよ。これは手術で取っちゃえば問題なく視力も元に戻るよ。」
次にA先生の言ったこと。
残念だけど、ルーカの腫瘍は前回同様石灰化しているうえに出血までしているんだ。可能な限り綺麗に摘出するけど、視力は戻らないだろう。まあ心配しなくても腫瘍さえ取れば意識障害はなおるよ。」
一体どちらを信じればいいんだ?
もちろん、H先生の言っていたことが本当ならばとても嬉しい。しかし前回の手術でA先生は的確な判断力と観察力を見せていた。
そんなことを考えているうちに、手術日がやって来てしまった。
前回とは少し違い、ぼくは歩いて手術室へと向かった。
しかしもう一つ、前回と異なっていることがあった。
「すみませんが、お母さんは外で待っていて下さい」
そう、前回心の支えだった母が今回は入室できなかったのだ。
「泣くな、泣くな...」
12歳のぼくは、そう自分に言い聞かせてひたすら涙を堪えた。
だが手を振る母の方をふりかえったぼくの目からは無意識のうちに涙がこぼれ落ちてしまっていた。
そうこうしている間に、ぼくは去年と同じ手術室に到着した。
「じゃあ麻酔を入れていくぞ」
前回と同じ段階をふんで、ぼくは深い眠りについたのだった。
「大丈夫?」
目を開けると、母を含め家族全員がそこにいた。
「十数時間かかったけど、手術は成功したよ。」それを聞き、ぼくは安心して再び眠ったのであった。
ぼくは順調に回復し、抜糸の二日後に追い出されるように退院した。
夏休みで入院したがっている子どもが多かったそうだ(笑)
そして4年半は平和にすごしていたのだが...
(作者ページ)
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皆様、ありがとうございます☆
ここからはぼくが失明した時の話です。
[失明]
2011年 3月7日。
その日、ぼくはいつも通っていた学校に行くのに道に迷ってしまった。
言うまでもなく、初めてのことだ。
珍しく雪が積っていたがそれは関係ない。そう、ぼくの視力が明らかに低下していたのだ。それも、この数時間の間に。
人の助けを借りながらどうにか学校に到着したぼくは、ホームルームにも出ずに手洗いの個室へと向かった。少し考える時間が欲しかったのだ。
いつ失明するかわからないとは言われていたが、いざ見えなくなったとなると落ち着いてなどいれない。
少したってからぼくは深呼吸をした。こうしてはいられない。そう自分に言い聞かせ、ぼくは保健室へと足を向けた。
保健室の先生はとても優しく、弱視でありながらもぼくがその学校に通い続けられたのは彼女のおかげだと言っても過言ではない。
ぼくがその保健室に着くと、彼女は一目ぼくを見て何かがあったのだと悟ったらしかった。何が起きたのかを説明すると、彼女はさっそく母に連絡を入れた。
連絡を受けた母が間も無くして保健室に入って来た。それから3人で話し、ぼくはさすがにこの学校にはいられないという結論に達した。
こうしてぼくの盲学校探しが始まったのだ。
*****
車に乗った母とぼくはまず一番近い盲学校へ向かうことにした。雪の未だ溶けきっていない中、ぼくたちは校門をくぐった。しかし出迎えてくれた校長先生は残念そうな顔をした。
「本校に高等部はないんですよ。」
そういいながらも、彼は一番近い、高等部のある盲学校のことを教えてくれた。
お礼を言いながら、ぼくたちは再び車に乗り込んだのだった。
家からずいぶんはなれたその盲学校で話しをしたぼくは、次週14日に臨時の入学試験を受けることとなった。そしてその日電車で盲学校に行こうとしたぼくと母は自分たちの間違いに気付いた。
三日前の2011年3月11日は東日本大震災の起きた日だった。とはいえ、東京なんだから大丈夫だろう。ぼくたちはそう考えていたのだが...
「なんで!?」
母が隣で声をあげたのだ。それというのも、本来行くべき駅まで電車が走らないということに気付いたためだ。とにかく行ける所までは行こうということになり、ぼくたちは臨時の終点となっていた駅へと向かった。
*****
「ここからタクシーを使おう」
そう言ってタクシー乗り場に行ったぼくたちは、またも驚くこととなった。ぼくたちと 同じことを考えているのだろう、そこには果てし無く続く行列があった。
「このままタクシーを待ってたら試験に間に合わないよ!」そう言う母に引っ張られるようにしてぼくは道の反対側まで歩いた。
「こうなったら通りかかるタクシーを捕まえよう。」
そう二人で言った時だった。空車のタクシーが来るのが見えた。
ぼくたちは必死でタクシーに向かって手を挙げた。
タクシーはぼくたちに気付き、速度を落とした。乗り込むやいなか、母は運転手にことの次第を説明した。
ぼくは臨時試験に間に合ったのだった。
と、こうしてぼくはその学校に入学することとなった...更なる試練がぼくをまちうけているなどとは知りもせず。
-------4月16日-------
失明したとはいえ、ぼくは読書拡大機などの特殊機材を使えば文字が読めていた。しかしその日、週末ということで遅くに起きたぼくは違和感を感じた。
...といっても、ぼくだって自分が失明したことくらいわかっている。ただ、これからのことを考えると怖かった。本当に、これからどうすればいいんだろう…そんなことを 思いながらベッドから出ると、やはり見慣れていたはずの部屋はかすみ、目の前はチカチカして眩しかった。
…誕生日3日前だというのに、とんだ誕生日プレゼントだよ。
リビングで母に状況を説明すると、問題点が一つ浮かんできた。…点字と歩行はどうなるんだろう…
月曜日、登校したぼくは先生たちと相談した。その結果、ぼくの点字・歩行練習のスケジュールが決まった。インターナショナルスクールに通っていたため、英語の授業は定期試験以外は点字練習。自立と古典の授業は歩行と点字に力を注いだ。
こうしてぼくの点字・歩行訓練が始まった。
…………
歩行練習は難なく進んだ。きづけば白杖を使うことにも慣れていた。だが、問題は点字だった。
五十音やアルファベットの形を覚えるのは難しくないが、指で読む(触読)ともなると別問題だ。しかも実践で使用するとなると、速く読めなくてはならない…テストを受ける度、点字の読み速度が遅いぼくは制限時間に間に合わず、恥を書いた。
しかし怒りの力とは凄い物で、悔しがりながら点字を練習し続けたぼくは、いつしかテストを終わらせられるくらいの実力を身につけていた。そして勢いづいたぼくはさまざまな活動に参加するようになった。
ぼくは音楽部、運動部、軽音部に入部した。2年生になると弁論大会や運動大会などにも出場し、有名な音楽コンクールでは独唱で優勝することもできた。
とうとうぼくも普通の学校生活がおくれるんだ、そう思っていた…
[3度目の入院]
2013年6月。半年に一度MRIを撮っていたぼくは信じられないことを聞いた。もとあった脳腫瘍の右側に嚢胞ができていると言うのだ。
「でもまだ症状も出てないし、様子を見てみるか。こういう嚢胞は一人でになくなることもあるんだ。」
そういうA先生の判断により、8月にもう一度MRIを撮ることとなった。しかし…
「あれ、手が…」
最初に違和感を覚えたのは趣味のウクレレを弾いていた時だった。左手が動きにくい。といっても、ちょっと疲れてるのかな、とぼくはあまり気にしなかった。
*****
しかし、症状は日に日に悪化していった…
あと少しで大学受験ということで塾に通っていたぼくは次に、パソコンや点字ノートテイカーが打てなくなっていった。
*(点字ノートテイカーというのは点字が浮き出る電子手帳のような機械のこと。ノートをとれたり、本を読めだり、計算機として使えたりと、いろいろな機能が備わっている。)
さらに、細かい作業をしようとすると、手が震えてしまう。ここで、ぼくはあることを決心したのだった。
8月、再びMRI検査を受けに行ったぼくは案の定悪い知らせを伝えられた。膨らんだ嚢胞が脳を圧迫したため、手が麻痺したのだ。普通ならばもう少し様子を見るそうだが、ぼくには時間がない。理療の学校を受験しようとしていたぼくにとって手は必要不可欠なのだ。
「手術をお願いします。」
…
3度目の手術を受けることを決心したぼくは、不自由な左手をむりやり使って塾に最後まで通い続けた。そして9月26日、ぼくは前から予定していた館山旅行に行った。ちなみに、入院日は29日、旅行から帰る次の日だ。とても大変なスケジュールだったが、とにかく存分に楽しんだ。
「スゲー!!」
館山のホテルに着いたぼくは思わず声を上げてしまった。なんと部屋には大きなプール、ジャグジー、そして掛け流しの露天風呂が付いていたのだ。それらを独り占めできるのだと思うと、ぼくは自然と笑顔になっていた。
鴨川シーワールドに行き、プールでは泳ぎ続け、夜は露天風呂に入った。最高の二日間を過ごし、帰りにはアクアラインの海ほたるによった。
こうして楽しい旅行が終わった。
*****
「とうとう入院だね。」
そしてぼくは母と病院に向かったのであった。
ぼくが希望した四人部屋はあいていず、二人部屋に入ることになった。初日はやることもないだろう、そう思っていた。しかしその考えは甘かった。
「昼食は食べないで下さい。飲み物も飲まないで下さい。」
看護師からこう言われて、ぼくは呆気に取られた。その後は検査の嵐だった…
9月2日。時間はあっという間に過ぎ、手術日がやって来た。
病室で手術着に着替えたぼくは、歩いて手術室へと向かった。そして部屋の中央の手術台に横になって、ぼくは深い眠りについた。
*****
実は今回の手術はある意味で、これまでで一番難しいものだった。嚢胞を摘出するというのはそれほど困難な作業ではない。しかし、今回の手術はぼくにとって3度目だ。
開頭手術は繰り返す度に難しくなる。組織が癒着してしまい、それを傷つけないように剥がさなければ手術が行えないのだ。また、ぼくの腫瘍は複雑に視神経に絡みついている。
嚢胞を少ししか取らなければ左手の麻痺も取れない。逆に嚢胞の根源にある腫瘍まで傷つけてしまえば、より重い後遺症が残ってしまう。
時間があれば、腫瘍ごと摘出してしまいたかった。そうすればリハビリなどは大変だろうが、もう再発の心配もなくなる。だがぼくには時間がなかった。
あと2ヶ月で受験だ。ゆっくり直している暇などない…
(作者ページ)
読者の皆様、こんなに作品の方を放っておいてしまってすみません|||
これからまた執筆を続けますので、どうか最後までお読み下さい!またご要望などございましたら、twitter@naokilucaまでお願いします。
p.s. もしよければフォローの方もお願いします(笑)
*****
気付くとぼくは緊急治療室にいた。
横を見ると両親がいて、ぼくは少しの間話した。<
ここに来るのも3度目かよ…
そんなことを思っていると、看護師がやって来た。
「「水が飲みたいんですけど…」とぼくが尋ねると、ストローのついた小さな入れ物を持って来てくれた。そんなんじゃ少ないよ!と思いながらもそれを口に運ぶと、一口でやめさせられた(泣)
そこで母に「左手は動くの?」っと聞かれた。ぼくははっとして注射針の刺さった左手を見た。先生には少しリハビリが必要になるだろうと言われたが…
おそるおそる手を開いてみる。続いて手術前にはできなかった、指を一本ずつおって行くという動きをやってみる。
「動く!」
まだ麻酔が切れて間もないのに、ぼくの左手は手術前よりよくなっていたのだ。
*****
病室に戻ってから数日は頭痛に悩まされた。頭にはガーゼや包帯のような物が何重にも巻かれていた。そんな中、部屋に来たA先生が面白い提案をしたのだ。
「左手が動いてウクレレが弾けるようになったら、入院中の子供たちのために弾いてやってくれないかな?」
1度目と2度目にぼくが入院していた階には、脳腫瘍を患った子供たちが多く入院している。そこで子供たちを元気付けるためにウクレレを弾いてほしいということだった。
それからは、音の小さいウクレレを病室に持ち込んで練習した。子供たちはどのような曲が聞きたいだろうか、どの曲を失敗せずに弾けるかなど、いろいろ考えながら日々を過ごした。
手の麻痺はすっかり治り、予定されていたリハビリも一度受けただけで終わってしまった。そうこうしているうちに、子供たちのためにウクレレを弾く日がやってきた。
ぼくは様々な年齢の子供たちの待つ大きな病室へと案内された。
「じゃあ頼むぞ。」
そう言うと、A先生はビデオカメラを構える。さらに「一言言ってくれ」などと無茶振りしてくる。
緊張しながら当たり障りのないことを言うと、ぼくは座ってウクレレを弾き始める。
結局、ぼくは誰でも知っている大きな古時計、明るくアップテンポなCrazy G、そして弾き語りでリンダリンダを弾くことにした。しかし弾き終わると、アンコールのリクエストが来た。
元気な曲を弾こうと思い、ぼくはSunny Side of the Streetおいう曲を弾いた。全ての曲を弾き終わると、ぼくは暖かい拍手に包まれた。
その後ぼくは個室にも行き、様々な曲を弾いて回った。
****
その数日後には退院し、ぼくは本格的に受験の準備に取り掛かった。
退院から2ヶ月。ぼくは第一志望の学校に推薦入学で合格した。
今は脳腫瘍は落ち着き、とりあえずは安心している。これからも再発の危険性はあるが、ぼくは気にせず自分の夢を追って行くつもりだ。
"What A Life!" 完
あとがき
皆さん、最後までこの作品をお読み頂き、本当にありがとうございます。
この作品の題名になっている"What a Life!"とは日本語で「なんて人生なんだ!」という意味です。10歳の時から脳腫瘍に悩まされ、視力までもを失ってしまう。自分で言うのもなんですが、正に「なんて人生なんだよ!?」と言いたくなるような状況だと思っています。
この作品では事実のみを伝えながらも、できる限り内容が重くならないように気をつけましたが、どうでしたか?
平成26年3月25日 沼本尚輝ルーカ